わたしにとってロリィタは「武装」である。
何者からの干渉も受けないという確固たる意思表示、これが己であるという明示、みんな違って当たり前という思想の具現。他人有りきではない、どこまでも個人であり孤高でありながら、自他の境界を明確にしながら、他者と繋がることができる。入れ込みすぎず突き放さず、そんな精神を「布」という物体で表明できるのがロリィタだと、わたしは思います。
女性たちが妻や母やそれに準じる少女という役割を求められ、性的に搾取され、個性を剥奪され能力を発揮する機会を潰されてきたように、男性もまたホモソーシャルの中で個人を度外視され、役職に人生を捧げるよう仕向けられマウンティングに晒されて、……ここまで書くとある種の「つよさ」にしがみつく一部の男たちが悪者になっていますね…実際そういった面は大きいのだろうが、そうして人々は分断を余儀なくされてきた。男女間の分断、同性の中での分断、マイノリティとマジョリティの分断、様々な分断。薄い連帯。そういった闇を抱えながら社会は回っているように、私には見えている。
わたしはロリィタを纏うトランスジェンダー男性だ。「スカートを履くなら女性のままでよかったのでは」と言われることもあるがそれは間違っていて、という話はここでは割愛するが、最初に述べた「ロリィタ観」でロリィタを纏っている。ロリィタはどこまでも「個人」なのだ。そして孤高であり、しかし孤独ではない。丹精込めて編まれたレェス、幾重にも重なるフリル、洗練されたデザイン、着る者を包み込む良質な生地。量産され得ない一着。自分であること。他人であること。そして異なる者同士は異なる者同士として繋がることができるということ、それはある種の優雅さだと考える。思想。主義。それらを内包する衣服に魅入ってしまった。
平日の勤め先では男性はスーツにネクタイという決まりがあるし、芝居の稽古の現場では稽古着である。そのためロリィタを着る機会はかなり少ないが、ロリィタが孤高で優雅である限り、わたしはロリィタを愛し続ける。
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