鹿児島にある我が家はミドルクラスの所謂「普通の家」であゝお金がナイナイと癖のように言いながらも、振り返ってみると木を2本育てられるような中ぐらいの庭のある、まあまあ大きな一軒家で、地元の食材を食べ、そこそこ持ちの良い服を着て、受験や習い事にも積極的にチャレンジさせてくれる、つまりは大変に恵まれた家庭だった。
家庭は良かった。進学先も国立中学と県立高校で治安が良かったし学習環境も県内最高レベルだった。鹿児島市の国際交流事業でマレーシアやシンガポールにも行かせてもらえた。(↓中2、マレーシアにて)
ここまで来て何の不足があろうか。
ある。実はあるんです。平和ボケなんかじゃなくて、根本的な問題が。
それは性的少数者に対する圧倒的理解不足。つまり社会から「わたしの存在」への明確な否定。わたしはFTMで、性同一性障害当事者だ。
オカマ?オナベ?そうゆうのはテレビの芸人がネタでやってるもんでしょ(笑)。
いや違うのだが。それでわたしは女子じゃないんだよ、心は男で……。
えっ、じゃあ女子トイレ入ってこないでよ?(笑)。
冗談でも言わないでくれよ。
そんなふうに育てた覚えはない、育て方を間違えたというのか。
あなたまで我が子に向かってなんて悲しいことを言うんだ。
我が家の長男として、わたしは「我が家の長女ひとり娘である」ことにこだわり続けた。「女である」ことに二十歳までの期限付きで誓いを立てた。髪を腰のあたりまで伸ばし、私服は徹底してスカートしか履かなかった。自我を捨てきれなくて狂人奇人を装いながら、ある面では貴人であれと素行に気をつけた。清楚なお姉さんのような声になりたくて演劇部できれいな声を手に入れた。平成中期の地方都市。セクシャルマイノリティなんて透明人間だ。そこにいるのにいないことになっていて、居ないという前提で世間が回っている。教室が回っている。地域がまわっている。
というか、令和元年時点ですら、市議会議員が「同性パートナーシップ証明制度(同性愛者にとっての、結婚に代わる制度)のニーズはほとんどない」「地方都市がLGBT施策を推進すべきでない」「自然の摂理に合った男女の性の考えを強調すべき」などと発言するような父権的保守王国である。さすが「明治維新150周年」を誇っているだけあって、鹿児島市は大日本帝国の家制度と「郷中教育」という上意下達に基づく思考停止から抜け出せていなかった(同市は盛大にバッシングを受け、ようやく令和4年にパートナーシップ制度を導入した)。
さて話を戻すと、どんなに衣食住教育に恵まれていようと、「存在権」が無ければ何もないのと同じである。会員登録のないポイントカードに何万ポイント貯めたって虚無だ。それがわたしだった。
次回(中編)
1.ツインテールの救い
2.ロリィタコーデの救い
お楽しみに!🦋
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