私は現役教職員ではない。が、令和3年3月に中学校教諭一種免許状(社会)、高等学校教諭一種免許状(地理・歴史)を取得した。教員免許を取ろうと思ったきっかけはあんまりなくて、大学を出るなら教員免許も取るものだと小さい頃から親が言っていたから、そういうものだと思っていた。いざ大学に入学するとそんなことはなかったが、私はそういう刷り込み効果に加えて「教師になる人」を知りたくなって、教員免許取得課程も履修した。教師になる人は大学で何を学ぶのか。どんなコミュニティを形成するのか。何を考え、何を議論するのか。高校卒業までに十何人もの教員と出会って、知りたくなったのだ。
私には中学時代の記憶に刻まれた教員が二人いる。一人は3年生のときの担任、もう一人は2年生のときの副担任だ。
前者はほんとうに良い先生だった。生徒ひとりひとりと向き合って教科指導をし、丁寧で真摯な姿勢で進路指導をしていた。あの先生がいなかったら今の私の人生は無いと言っても過言ではない。県でいちばんの難関校に行きたいと言う私の背中を優しく押してくださって、本当に心強かった。
後者は、はっきり言って酷かった。もう一度言う。人として最低だった。何があったのか。
教科主任と学級副担任を掛け持つ彼は、所謂「モラハラ男」だった。掃除時間、窓枠の上辺を指で拭ってその指先に息をフッと吹きかけながら「中村、ここも掃除せぇよ」と微笑む男だった。私に濡衣を着せて教科研究室(職員室)で70分間怒鳴り散らし、ふんぞり返ってデスクに足を乗せ、私が事実誤認を指摘すると「中村、気に入らん子を仲間外れして最後は独りぼっちになるぞ」という謎の御高説を垂れた。遂に涙が溢れて、それでも事実誤認を指摘したが「おおう、泣けば済むと思っちょっどが(済むと思っているんだろ)」とまた怒鳴り散らした。その時間私は音楽の授業が受けられなかった。いくらなんでもおかしいので母親を交えた三者面談を組んだが、彼は定刻に来なかった。待った。母と二人で「もう来ないんじゃないの〜?」と言いながら冬の寒い理科室で待った。大遅刻の末ようやく現れた彼は一言、たいそう面倒くさそうに「なんですか」と言った。面談は話にならなかったので全てを諦めた。
その男は私の中学卒業後、その中学校の教頭になった。教育研究校。ここの中学で教頭になると教育委員会への栄転はほぼ確定する。そのとおり男は栄転し、教職員課専門員になり、今では教育事務所指導主事である。立派な肩書きになったものだ。
実は今から数年前、中学卒業から5年後に彼と会う機会があった。新成人の集い。彼は謝ることはなかった。が、多分出来事を覚えていたと思う。私は顔も見たくなかったが、彼は「何事もないかのようにつとめて明るく」話しかけてきた。もちろん過剰指導という名の虐待について謝罪はなかった。
つまりその教育事務所指導主事になった男は己の虐待行為を省みることなく教師や教育機関を指導する立場にいる。ああ、当時ちゃんと告発しておけば良かった。まだ2年生だったんだから、内申点なんて気にしないで当時の主査や教頭や副校長に言えばよかったのに。私が当時告発できなかったせいで、地元の先生方、皆さんの上では虐待教師がのうのうと税金で米食ってます。過ちを認め謝ることを一切知らない男があなた方の上司になってしまって本当にごめんなさい。
本気で気にしている。なにしろ虐待教育の再生産が起こる可能性に加担してしまったのだから。「郷中教育」という名のもとで上意下達式思考放棄が推奨されている地域なので尚更である。先生方お願いします。どうか子どもの人権を守ってください。上から何を言われても、子どもたちを守ってください。決して目の前の児童生徒から目を背けないでください。お願いします。
思い出の進路指導の先生はネットで検索してもお名前は全くと言っていいほど殆ど出てこない。お元気にされているだろうか。今更告発文めいた文章を書くような大人になってしまってすみません。でも、言わずにはいられませんでした。お許しください。
先生には報告したいことがたくさんあります。先生がご存知なのは性転換前の私でしたね。長い髪を1つに括ったセーラー服の女の子でしたね。通訳になりたいと言っていましたが俳優になりました。先生はネットには載っていないけれど、きっとご活躍されていることと願っています。
元生徒による「教師のバトン」おわり。
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