「みんな仲良く」しなくてもいいから、仲間外れはやめようよ、ってやつ。これが包摂的社会なんじゃないかと考えています。じゃあ、仲間外れにする人を、差別主義者を、人殺しを、仲間外れにするのは包摂に反する?不寛容に対して不寛容であることは?包摂って簡単なはずなのに、すごく難しい。
包摂的社会の中には「性的マイノリティーについての理解に努める仲間たち(アライ)」がいます。
いち当事者からすると、アライにはあらゆる尊厳の蹂躪を否定してほしいです。特に性差別は絶対にやめてほしい。例えば女性嫌悪者(ミソジニスト)はMTFを、男性嫌悪者(ミサンドリスト)はFTMを傷つけるからです。
この世界には性別違和を持つ人がそれなりにいるけれど、マイノリティーはマイノリティーである以前にひとりひとり違った人間なので、そもそも属性一括りで捉える事自体がまあまあな暴力性を帯びるでしょう。
ところでわたしは差別主義者を赦して生きていくべきか。これは永遠の問です。
わたしは人として、ミソジニー(女性嫌悪)に反対します。ミサンドリー(男性嫌悪)に反対します。あらゆるヘイトに反対します。人は属性にかかわらず等価であるからです。属性によって憎まれることは絶対にあってはなりません。
わたしは性的マイノリティー当事者として、アライを名乗る人々にはこれを守ってほしいのです。
したがって、反転可能性の観点からも、わたしはたとえ「異性」から加害されても「異性全体」を憎むことはしません。もちろん加害者本人や加害の構造を憎むことはあります。しかし、何かの構造が単一の性別によって構築されることはありません。世界は二項対立的にできてはいないのです。
では、二項対立的に世界を捉え且つ性差別を行うミソジニストやミサンドリストに出会ったとき、わたしはどうすれば良いのでしょうか?赦すことが包摂なのか、赦さないことが包摂なのか、これは自分にとっての永遠の問です。包摂とは何か、赦すとは何か。難しいですね。
以上、女性蔑視と性的被害と男性嫌悪の全てに直面した、トランスジェンダー男性の脳内の一例でした。
おわり
*Photo by Eiri Motoyoshi
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