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#17 それは差別か

チャーリー

 「差別」という言葉が頻繁に叫ばれるようになった昨今、わたしは「差別」という言葉を、使いたくない。というか、使うべき場面は限定されるべきであるのに、とつくづく思う。


 そもそも「差別」という単語の定義は、場面によってまちまちである。内閣府は自治体等の「『差別』に関する記述方法の類型」として、「不利益な取扱い、不均等待遇、不当な差別的取扱い、不当な取扱いといった記述、そして合理的配慮の不提供を記述する条例があることがわかる」とまとめており、様々な見方が存在することを明らかにしている。



 この「差別」という現象は、被差別者の生活に実害が及んではじめて成り立つものであるということに注目してみる。すると「差別」は、構造的・組織的にしか発生し得ないのではないかという考えが生まれる。なぜなら任意の個人が特定個人の属性を理由に嫌がらせをしたとしても、それは単なる「嫌がらせ」であって、それなら嫌がらせをする者とは関わらなければ良いからだ。何らかの属性を理由に「仲間外れ」を周囲に促したり、それに同調したりしたときにはじめて差別が発生する。そうして生まれた差別的な待遇や制度は、社会の癌として駆逐されねばならないだろう。


 わたしは自閉症スペクトラムをもつ人間であり、性同一性障害(FTM-GID)の当事者であり、左利きである。多様な背景をもつ人々を排除しない近年の動きから、また、自身の前向きなコミュニケーションから、「仲間外れ」にされることが格段に減った。無理解により心無い言葉をかけられることも、偏見により不利な扱いを受けることも、ほとんど無くなった。尤もそれは、わたしが自分の身を置く環境を選んでいるから、同時に環境を選ぶ権利を奪われていないから、ということに大きく拠るだろう。「わたし」という人間性を度外視して属性のみにフォーカスし、勝手にわたしを嫌う人は勝手にそうすればよいのであって、わたしの与り知るところではないのである。



 人生ではじめて、属性を理由に見知らぬ人から嫌われて、そう思った。

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