「演劇にはメッセージ性が必要だ」という刷り込みが発生していないか?
わたしは、実は趣味で舞台の台本を執筆している。発端は大学時代の演劇サークルで脚本担当をしていたことにあり、在籍時は3本のお話を書いたものだ。また、東京外国語大学では専攻している言語で芝居を1本上演する慣習があり、その原作も担当した。4本の話を書いたとき、わたしの書く物語は何だか「エンゲキ的」でなかった、ように思っていた。
今も本を書くが、当時から「ただその世界の日常をドラマに描く」ということをしていたので、お客様からは「美しかった」「感動した」といったポジティブな感想だけでなく、「拍子抜けした」「だから何が言いたいの?」などといった感想を戴くこともあった。しかしこれは演技技法と脚本との親和性に問題があったのであり、本そのものの否定ではないのだと最近気がついた。
新劇的か新派劇的か、と仮に分類するならば、お客様はより啓蒙的な新劇を求めて観劇にいらっしゃっていたところに、私が風情で魅せる新派劇的なものを提供していた、ということなのだろう。しかし学生時代は風情で魅せるという技法がまだ甘く、サークル内でも共有が甘かったかもしれない。
わたしは演劇で人を動かしたいとは思わなくなった。啓蒙するなら書籍でいい、記事でいい、演説でいい。演劇という芸術に依るのであれば、教化という傲慢さを捨て、より世界に忠実に、誠実に、謙虚に、向き合うことこそが重要なのだと、今はそう考えている。
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