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チャーリー

#15 ヒトで在りたいと願うこと

※この記事は、Novanta Quattro #3 オペラ「愛の妙薬」公演にて配布されたパンフレット「万朶」キャストインタビューページの、元となったエッセーです。

 

 平成九年。四半世紀もむかしの日本では、まだ「性同一性障害」というものはほとんど認知されていなかった。「自閉症スペクトラム障害」もほとんど認知されていなかった。左利きですら、なんか特殊な感じだった。


 私は性同一性障害と自閉症スペクトラムを持って生まれ、左利きに育った。学校の勉強はよくできたし、硬筆コンクールも合唱祭も、体操だってお手のものだった。しかし私から見た「世界」はあべこべである。「お箸持つ手上げて」と言われたら「ああ、右手を上げればいいんだな」と自分の頭で再解釈せねばならないし、戸籍上の性別に基づく「らしさ」が求められるし、他の同世代の人々は私と違った形でコミュニケーションを成り立たせる。学業での好成績は逆の方向に働き、配慮や支援を必要とする子どもとしては認知されなかった。しかも「世界のあべこべ」を訴えても平成時代ではまだそれほど知られていない現象であったために、誰も理解してはくれなかった。


 そうしていつの間にか私の中で、夢と現実は境目を無くしていった。世の中は道化で成り立っていて、最初から全てが決まっている筋書きの書かれたお芝居なのだと思うようになったのだ。


 しかし舞台に立っている時間は、全てが「ほんとう」だった。「芝居をしている」ということが「ほんとう」になるのだ。作詞家になりきってメッセージや情景を歌い、クリスチャンになりきって聖歌を歌い、仏教徒になりきって日本民謡を歌った。演劇も似ていた。つまり舞台に立っているあいだは、「ふつうのヒト」で在れたのだ。


 世の中に知識が広がった今、マイノリティや障害者の人権は少しずつ回復し、理解者や仲間と集まれるようになった。堂々と自分のことを話してもよい環境ができたし、舞台上でだって自分らしさや個性や特性を生かしてもよいのだと理解できるようになった。しかし、それでも自分が人間ではない、生命体かどうかも分からない何かであるかのように感じる瞬間はある。


 ヒトで在りたいと願うこと。舞台という職業をするためにヒトに成ること。そして自分が自分であるということ。これらは、生きている限りの永遠の目標であり、同時に実践であるのかもしれない。



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撮影者 松岡大海

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